わたくしのいもうと

わたくしのいもうと
勝又 公仁彦
2020/01/10 ~ 2020/02/15
IG Photo Gallery

IG Phto Galleryでは2020年1月10日(金)より勝又公仁彦展「わたくしのいもうと」を開催いたします。
勝又公仁彦は写真のほか、映像、言葉、パフォーマンスなど複数の表現方法を駆使した作品を国内外で発表してきました。「わたくしのいもうと」は勝又の最新作です。
昨年、妹を亡くした勝又は、彼女の遺品の中に、失われたと思っていた家族写真の束を見つけます。彼女がなぜそれらの写真を手元に置いていたのかという謎と向き合うことを余儀なくされます。また、長く闘病していた彼女が生前、写真をやりたいという希望を持っていたことを知ったことも、強い印象を残しました。
「わたくしのいもうと」は勝又にとって、「硫黄島へ -玉砕の島Vol.1-」(2005年、銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロン)に続いて、直接的に私的な題材を扱う作品であり、身近な者の死という普遍的なテーマに取り組んだ作品となります。
展示はプリント、デジタルフォトフレームを用い、写真、映像、言葉によるインスタレーションとなる予定です。
また、最終日には「喪失と悲嘆をめぐる参加者による対話セッション」が行われます。作者が投げかけた問いに対して、鑑賞者がどのように応答するのかも、この作品の重要な一部となることでしょう。
作家の新たな試みにご注目ください。

タカザワケンジ(写真評論家・IG Photo Galleryディレクター)

 

 

「『わたくしのいもうと』展のためのステートメント及び状況説明」

勝又公仁彦

人の死というのは生を受けた以上は当然のことであり、取り立てて語るほどのことではないのかもしれません。すべての人の生と死は個別の一回限りのものであり、それぞれがかけがえのないものだと思います。しかしその中に時に多少なりとも特異性をもった生と死を送った者が存在するでしょう。それでいながらその多くは語られることもなくまさに死の淵に呑み込まれていくように忘れられていきます。この場合の「特異性をもった生と死」とはいわゆる「天寿あるいは人生を全うした」とは言いにくい生と死のことです。折口信夫はその最後の学術論文である「民族史観における他界観念」の中で死者の霊を大きく二つに分類し、突然の死や非業の死、若年での死を迎えたものを「未完成の霊魂」と呼んでその鎮魂を図ると共に「完成した霊魂」への従属を解き放とうとしています。一人の人間の生と死はただ近親者にとってのみ重要な意味をもつことが通例ではあっても、その各所にその他の人々が抱えている、あるいはごく少数の関係者が知るのみで、一般の目には届かない隠された様々な個々のあるいは社会に通じる問題が内在していると、残されたものが感じた場合には、我々はその者の生と死を通じて何かを考えることができるのかもしれません。

 2018年の10月に大阪のギャラリー176で行った「Polyphonic forest」という個展のインスタレーションをIG photo galleryでも行って欲しいという依頼をいただいておりました。しかし作品の形式には一定の自負はありましたけれども、ご覧いただいた皆さんの高い評価にも関わらず、私自身はそれに伴うふさわしい内容がまだ足りないように思っていました。そのためその開催を保留にしていただいておりました。この度の開催にあたっては、その内容が多少なりとも発表をするに値するとは思いつつも、非常な自信や確信に基づくものではありません。いまだ調査と制作と思考の過程にあり、不完全な形で提示せねばならないということと、その題材はあまりに個人的なものかもしれず、自分が思うほどの社会性を持ち得ていないのではないか、私が胸を揺さぶらされるこの感情を観る方と共有するのは難しいのではないか、という疑念は残っています。それでもこの場所でこの展覧会を行うことの一つの理由としては、この世の全ての人間の中で最も心安く打ち解けて日々連絡を取り合っていた人間、私の末妹と現実の空間の中で最後に会ったのがこのIG photo galleryでの2018年春の私の個展の場であったということにあります。ベルクソンは空間よりも時間を重視した哲学者でありましたけれども、語られる内容よりも単に何かが言われている(形式がある)ということ自体でそれは「呼びかけ」となるといったことを書いているそうです。もしそうなのだとすれば今はただ語ることだけでも良いのかもしれません。そしてその語りは私一人が行うのではなく、語らずにいる多くの人々によってなされるべきだと思っています。その多声による交響の時間と空間こそがそもそものその形式の発案でもあり、今回行う展覧会と会期中のイベントとの関連性でもあります。

 「わたくしのいもうと」というタイトルは宮澤賢治の詩から採られています。小学校5年生の頃、「松の針」や「無声慟哭」「永訣の朝」「青森挽歌」などの賢治が妹トシの死をうたった一連の挽歌群を読み、強く感動し、作文に書いたことを2019年の1月19日に思い出しました。それは私に妹がいるためで、妹をもつ人は皆その詩に共感するものと思っておりました。しかし今ではそれは少し違っていたのかもしれないと思っています。私は心のどこかで妹が先に亡くなることになる未来を予感し、賢治の詩の中でそれを先んじて体験していたのかもしれません。偶然というのは重なるもので、私は奉職している大学の業務として、オホーツクが会場の学外授業を翌夏に行う予定にしていました。賢治はトシを亡くした翌年の夏に花巻農学校の業務により北海道から樺太を訪れ「オホーツク挽歌」などの挽歌群や「銀河鉄道の夜」の着想を得ています。賢治が実際に見上げた深夜の夏のオホーツクの夜空を私もまた1人浜辺で見上げました。しかし賢治が歌い上げたような挽歌は私の能力では作り上げることはできません。また、賢治やその家族が死にゆく娘の看病をし最期を看取ったのに対して、わたくしの家族はその最期の日々の彼女の身体に近づくことは許されず、他府県の各々の家にてその状況を簡略に知らされるのみであったことも悔恨とその日々の細かな事実及びそこに至る長い闘病の日々の暮らしと心中の葛藤と喜びと苦悩や懊悩などに対する様々な想像を巡らし続けること、そしてそのこと自体の重みと痛みの反復と継続とに繋がっています。突然の死には「永訣の朝」は用意されていないのです。

 「いまだ調査と制作と思考の過程にあり、不完全な形で提示せねばならない」と先に書きましたが、この会期で行うことの理由を最後に記します。この展覧会は1月の10日から始まります。それは末妹の誕生日の翌日にあたります。昨年2019年の1月9日の誕生日、いつもと同じようにLINEでやりとりをし、例年と同じくお祝いを述べ、彼女の配偶者(義弟:医療従事者)からどのようなプレゼントをもらったのかなどを深夜22時過ぎまでやりとりをし、最後に彼女から届いたのは熊の顔に人間の身体のキャラクターのおしりからクラッカーの中身が飛び出た、いささか下品な笑いを誘うスタンプでした。進学のために上京し、成人し、恋愛と結婚を経た後に、その身体に潜在していた先天性ではあるが遺伝性ではない進行性の病が見つかり、以後入院手術と自宅療養を繰り返し20年以上の闘病の苦しみと異物を入れた手術による強い痛みとの闘いが続く中でも、彼女は家族の中の誰よりも明るくユーモアと余裕をもった態度をもって我々に対していたために、そのようなスタンプもまた平常のやりとりの一つとして何の不思議もないものでした。
 翌日の1月10日、わたしはいつものように、おはよう、のLINEを彼女に送りました。しかしいつまで経ってもそれは既読になりません。昼が過ぎても夜になっても既読にはなりませんでした。夕食を終えた頃、母から電話が来ました。いもうとは風呂場に倒れていたところを帰宅した夫に発見され、緊急搬送されて集中治療室にいるとのこと。自裁を企図して洗剤を飲み干したという意味のことを義弟に言ったそうです。妄想に侵されており、集中治療室で意識が戻った以後もそれが治らないまま、身体拘束もされたとのことでした。それから1週間はわたくし、そしてまたおそらくは家族も心ここにあらずで日々の業務はこなしながらも、実際のところは何も手につかずにおりました。後に知ったことですが、既に早くから統合失調症による通院闘病も続けていたということで、身体の病気だけだと思わされていたわたくしと家族の不明を恥じるとともに、そのような様子を微塵も見せることがなかった夫婦の固い意思にも驚かされました。しかしまたそこには何らかの差別の意識が患者本人にもあったのではないか?という疑念も持たざるをえません。自らを障害者として嘲る文言や、障害者としての認定を拒むような文章も残されていたことにもそれは表れていたかもしれません。わたくしはこのように単にいもうとの運命を嘆きうたうというだけではなく、自身にも彼女にも批判の眼を向けてきました。そのことは他の家族や病や苦痛をもって生きている方にとっては厳しすぎる態度と受け取られるかもしれません。
 搬送から8日目の夕方、身体の容体が落ち着いたため、精神病院に転院して療養することになり、2週間もすれば我々実家の者も面会が可能になるという連絡がきました。気持ちも安定して病院のスタッフにも大人しく礼儀正しくし一人で食事をとったとのことで、安心したのも束の間、その数時間後には心肺停止したとの連絡が来ました。看護師が目を離した間に、倒れていたとのことでした。元の病院の集中治療室に戻されましたがそのまま亡くなってしまいました。死亡宣告についての連絡がきたときの母の声は人間の声とは思えないような唸り声で何を言っているのか全くわかりませんでしたが、そのことでむしろ何が起きたのかが理解できました。私は自分でも思わぬほどの大きな声で驚きと叫びの音を洩らしました。周りにいた方々はびっくりしたかと思います。祖母や伯父の看護や葬送と整理とで15年以上を費やしてきた母が休む暇もなく娘の死に直面せねばならないことにも私の懸念は深まりました。いもうとの直接の死因が原因不明のため、また一連の状況の不透明さから病院から警察への通報があり千葉県警の介入がなされました。数年に一度の大手術を繰り返してきた傷だらけの身体のため、義弟は司法解剖を拒否したそうです。わたくしは数時間トイレに立て籠もって嗚咽していました。深夜であったこともありまた翌日は博士課程の担当学生の口頭試問に当たっていたたため、すぐに駆けつけるということはしませんでした。いまさら行って何になるのでしょう。
 京都から車を運転し実家の家族をピックアップしたのちに、千葉県の婚家へと着いたのは数日後のことでした。道中母は「残念だ」でもなく「つまらない」でもなく何か不思議な表現の言葉を繰り返し呟いていました。私は運転に集中していたのと、あまりに印象的な言葉だったので忘れるはずもないと思い、メモを取らずにおりましたが、その後すっかり忘れてしまいました。母に至っては何か呟いていたことも記憶にないそうです。下肢が不自由でほぼ寝たきりのいもうとのために母は定期的に食料などを送り続けていましたし、正月には実家に帰る約束をしていため電話でコンタクトをとっていたので年末年始とそれ以後のやりとりの中でいもうとの状況の危険を察知していたようでした。いもうとが心待ちにしていた帰省は突如中止されました。そのことと彼女の自裁は深く関わっていたようでした。母と上の妹は先に家に上がりました。駐車に向かう私の背に二人の悲鳴のような声が被さってきました。玄関には実家近くから撮影した富士山の写真が飾られていました。いもうとが娘のように可愛がっていた猫が、突然の訪問者に驚いて外に逃げて行きました。二階建ての一軒家でいもうとが日頃寝起きしていたベッドはシャッターの降ろされた薄暗い部屋にありました。遺体は数日が経っていたにも関わらず温かみが残っていました。表情が穏やかで苦しみから解放されたその顔はありきたりな表現ですが少女のようでした。上の妹は遺体に向かって何度も戻ってくるように怒りを交えて呼びかけていました。上の妹にとっては末妹の行いは敗北や逃避と思われたようでした。友人もおらず実家に引き籠もっている彼女にとってもただ一人の話し相手であった末の妹の存在は大きなものでした。そして私や末の妹も含め家族の問題や悩みの中心は病に苦しむ末妹ではなく、上の妹の行く末の方にありました。重病であることを忘れさせるだけの人付き合いにおける心配りや健康さを末妹は持ち合わせておりました。わたくしは本当に彼女が病気であることを忘れて接していたのです。先行きの不明な私の不安定な仕事と生活を案じて、彼女は毎年成田山のお守りを送ってくれました。わたくしが彼女に病気平癒のお守りを送った覚えはありません。わたくしがしたのは就業ができないことを悩んでいたいもうとの作ったぬいぐるみを買い取って、お子さんが生まれた友人知人に送りつけていたことくらいです。そのぬいぐるみなど彼女が作ったものや遺品の一部も会場には設置されます。絵が得意だった彼女ですが、痛みで集中できないためか、残された作品は多くはありません。 
 遺体に対面したのちリビングに移った我々に、義弟は彼女が保管していた写真の束を取り出して見せました。そこにはいもうとが写っている写真はもとより、わたくしや家族が単独で写っているものも含め多くの写真がありました。わたくしは自分の子供の頃の写真は、湿気の多い実家の保管環境の悪さで全て失われたものと諦めていたのです。そのほとんどは忘れていたイメージでありながら、見覚えのある写真たちでした。わたくしが撮った写真もいくつかありました。結婚式の写真を撮ったのもわたくしでしたし、本格的に写真に取り組み始めた学生時分に最初にモデルになってもらったのも彼女だったことに気がつきました。発病する前の多くの写真たちをいもうとが保管していたこと、忘れていた多くの出来事がそれらのイメージとともに蘇ることに、わたくしは言いようもない思いでその場で写真を複写し始めました。いもうとがなかなか上がることができなくなっていた二階の踊り場には私が撮影した実家前の休耕田の夜の雪景色の写真が飾ってありました。結婚祝いにわたくしが贈ったものだそうですが、そのことも全く忘れておりました。額装された全紙のプリントのマットは日に焼けて変色していました。写真の中に光っている観覧車のあった遊園地で撮られた写真も先ほどの写真の束の中にありました。
 火葬場の予約が混んでいたため、告別式はそれから10日以上経過したのちに行われました。最後に彼女の頬に触れたとき、わたくしはその冷たさに驚き初めてその死を実感して涙がこぼれました。体調が悪く通夜から加わった父は告別式でも火葬の後も泣いたりしませんでした。幼時から青年期まで肉親との死別を繰り返してきた父には娘の死さえも日常のことであるかのようでした。しかし、精進落としの席での挨拶でついに彼も嗚咽を洩らしました。父が人前で泣く姿を見たのは初めてのことです。わたくしはなぜか面白くて笑ってしまいました。義弟によれば、いもうとは写真を学んでみたいという希望も持っていたとのことでした。わたくしが教えているコースでは聾唖の方や肢体不自由の方や精神を病んだ方など障害をもった多くの方が在籍しています。もっと早く教えてくれればと思う一方で現実には通学は難しかっただろう、という冷静な判断も即座に湧いてきました。それは二人も同じ考えだったのだろうと思います。エイブルアートの活発化や障害者や肢体不自由のアーティストの活動や活躍、あるいはそういった方々の権利主張など、健常者との非対称性を埋めるような取り組みや実践、法整備などが進む一方で、そのような活動や思考をする余裕もない切羽詰まった状況のより困難な人々の声は届くこともなく呻きとともに消えていっているような気がします。

 身体がなくなってしまった人たちの肖像を新しく撮ることはできません。しかし写真の中にいる、かつてその場所に、そのカメラとレンズの前にいた人々の姿を改めて撮り直すことは可能です。ネガが投影された暗室のイーゼルの上、揺らめく現像液の内にあらわれる像、L版のお店プリントに記された過去の日付をスマホで再撮する行為の中にわたくしは自問する相手を得、失われた時を感傷とともに見つめ、解き明かされることのない人生と写真の謎とに日々向き合っています。

■映像・機材協力 井上雄輔

■トークセッション
2019年1月11日(土)18:00~
勝又公仁彦×タカザワケンジ(写真評論家、IG Photo Galleryディレクター)
予約不要、入場無料
先着約25名。立ち見になる場合もありますので、ご了承ください。

「喪失と悲嘆をめぐる参加者による対話セッション」
2月15日(土)15:00~
予約不要、入場無料
入退場自由
セッションの模様は録画公開される可能性があります。