写真展

瞽女 盲目の旅芸人

安達 浩

1985.07.09(tue) ~ 07.15(mon)

 1973年5月、私は初めて瞽女さん達に逢った。新潟県長岡市、ようやく木々の緑が濃くなり始めたのどかな峠の山道を、三味線を背負って一列になって下って行くその姿に、私はなつかしに似た不思議な感動を覚えた。
 わが国で最後まで門付けをしていた「長岡瞽女」と呼ばれた彼女たち、関谷ハナさん(明治43年生まれ)、中静ミサヲさん(大正元年生まれ)、金子セキさん(大正2年生まれ)の三人は、いつも一緒に旅をしていた。晴眼の関谷さんは「手引き」と呼ばれ、常に先頭に立つ案内役であり、続く盲目の二人は時々その順番を交替していた。一番後ろにいるときは唄いもせず、ただついて廻るだけ、一種の休憩時間である。
 村に着くと、「瞽女宿」または「昼宿」といわれる宿に荷物を下ろして門付けに廻る。家々の戸口に立って三味線を弾いて唄う。迎える村の人々とは、もう長いなじみである。「今年も元気で来てくれてよかった」———雪深い冬は旅をしない瞽女さんたちを、村のだれもがそう思って歓迎し、世話をするのである。茶がふるまわれ、コメやいくらかの金銭が渡され、世間話がはずむ。その米は「百軒米」などと呼ばれ、多くの家から集めたので縁起がよいといって買う家もあったりする。彼女たちは、ごく自然に村の日常にとけ込んでいる。・・・・・かつて、このような“やさしい風景”が私の周りにもあったことを思い出し、それは彼女たちと初めて逢った時の不思議な感動に重なっていった・・・・。
 二度目に逢いに出かけたときのこと、近づいて行くと「安達さん、来たのかい」と先に声を掛けられて驚いた。私の足音を覚えていてくれたのである。それから数年、写真を撮りに行くのか、彼女たちに逢いに行くのか、また私の内の“自然体の心”に下りて行くために出かけて行くのか、わからないような日々が続いた。今にして思えば、それはひとつのことであったような気がする。ある時は瞽女宿に一緒に泊まり、昼宿で食事を共にし、戸口に立って声をかけたりもした。私はごく自然に深い呼吸をしていた———。
 1976年、「また来年・・・・・」といって別れたのが、瞽女さんたちとの旅の最後になった。中静さんが逝った。


会期:1985年7月9日(火)〜7月15日(月)
開催ギャラリー:新宿ニコンサロン(新宿西口・京王プラザホテル内)