9月3日(火)
約1年ぶりに帰ってきたパリは、ほとんど変わっていなかった。
騒々しい通りには、車のクラクション、救急車のサイレン、バスの音……。白人、黒人、アジア人と多様な国籍の顔が見える。相変わらず、物乞いや路上生活者も多い。
到着した当日は、“戻ってきた”という感覚はあまりなかった。
実際、メトロの切符の買い方や、スーパーでの会計の仕方、当時何を食べていたのかもあまり覚えていなかった。
何人かの知人・友人に会って、現地の食べ物を食べながら、徐々にパリに体を慣らしていった、そんな感覚だった。
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さて、今後このブログで、「ギャラリー・ジャパネスク・パリ(仮)」の設立までの過程と、パリの写真事情などをお伝えする予定だが、はじめに簡単に自己紹介をしてこうと思う。そのほうが、このギャラリーを取り巻く状況など、読者の理解を助けると思うからだ。
私は、もともと写真業界、ましてやアート業界に属している人間ではなく、以前は雑誌や、企業向けの媒体などを作っている編集者だった。仕事でカメラマンと一緒に働いたり、自分で簡単なカットを撮影することはあったが、基本的には門外漢だ。
今回のプロジェクトに関わっているのは、純粋に巡り合わせ。
たまたまギャラリーのオーナーが、「パリでギャラリーを開きたい」という夢があり、たまたま2018年の夏にパリから帰ってきた私が、いわゆる就職情報サイトを通じて出会い、お互いの条件が合致した、というだけだ。
2017~2018年にパリにいたのは、申請時に30歳未満なら誰でも申請可能なワーキングホリデービザを取得しての滞在だった。渡仏した理由は、「実務レベルで英仏語を使った実績が欲しかった」から。
私は、1996~1998年に父の転勤で、スイスのヌーシャテルというフランス語圏の街で暮らしたことがある。父の勤務先がその街にあったからだが、チューリヒ、ジュネーヴといった都市と比べて、こじんまりとした街で日本人学校などあるはずもなく、現地校に通うことになった。
外国語を学ぶには、最も適した時期だったらしく、すいすいとフレーズが頭に入り、2個上の兄、6個下の妹よりもしっかりと定着した(内弁慶だった性格もあり、コミュニケーションには苦労したのだが……)。
帰国後は、通っていた小学校に戻り、地元の中学校に進み受験をして普通の4年制大学に進み、就職。希望していた編集の仕事に就き、何度か転職をした。30歳を前にして今後のキャリアを考えた時に、「編集」「ライティング」のスキルに加えてもう一つ自分の武器を作って、差別化を計ろうと考えた。
それなら、もともと“貯金”のある外国語を使えるようにしよう。
フランス語をやるなら、カナダでも、アフリカでもなく、フランス、それもパリにしよう。日本人はフランスが好きだし、帰国してから仕事に繋げやすいだろう。
理由としては、そんなところだ。
そして、2018年の夏に京都写真美術館で働くことが決まり、京都のギャラリーで、パリへの準備を進めつつ、しばらく研修することになった。