北海道美唄市

産業編集センター 出版部
2025/04/15 ~ 2025/05/15
北海道美唄市
【旅ブックスONLINE 写真紀行】
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「日本一きれいな炭鉱住宅街」が残る石炭の町
空知地方のほぼ中心に位置する美唄は、かつて道内有数の石炭の産地として栄えた町である。地名の由来はアイヌ語の「ピパオイ」(烏(カラス)貝の多いところ、の意味)。歴史的には新しい町で、明治の初めまでは完全な原野で未開の地だった。
明治政府は北海道の開拓を推し進めるために急務だった道路建設のため、屯田兵や入植者を募集して労働に携わらせたが、美唄のような原始林に覆われた奥地を開発するには道路建設が急務であり、それにはかなりの労力と費用が必要だった。その解決方法として考え出されたのが、囚人たちを使うことだった。当時は明治政府に異を唱える政治犯や思想犯が大勢逮捕され、囚人が急増していたことから、彼らが次々に労働力として送られたのである。こうして原野に道路ができ鉄道が敷かれ、明治中期の美唄には屯田兵も約400戸が入植した。
美唄で本格的に炭鉱が稼働したのは、大正に入ってからである。大正3年に石狩石炭という会社が開業した軽便鉄道を三菱が買収し、美唄鉄道が発足、そこから急速に炭鉱開発が進み始めた。同じ頃、田中汽船鉱業が開坑した炭鉱を三井が買収し、大資本による採炭業が本格化する。各炭鉱の周りには従業員たちの住宅が増えて大きな住宅街ができ、また炭鉱輸送のための鉄道も敷かれ、学校や役所なども充実していった。
特に三井美唄鉱山は、炭鉱のあった山奥から炭鉱施設や住宅、学校や商業施設などすべての拠点を現在の南美唄町に移転。昭和25年には戸数3000戸、人口は2万人を超えた。花畑や植栽を備えた立派な住宅が建ち並び、「日本一きれいな炭鉱住宅街(略して炭住)」といわれたそうである。
南美唄町の炭住は今もかなりの数が残っていて、現役の住居として使われている。多くは碁盤の目状に仕切られた敷地に、かまぼこ型の屋根を載せたこぢんまりとした木造平屋建てで、広い庭もついている。ちょっと見には特に炭住とはわからないが、特徴を把握した上で見ると、元炭住だとすぐわかる。道内の他の炭住は今ではもうほとんど見られないが、三井美唄の炭住は建物の造りがしっかりしていて、また中心市街地からも便利な場所にあったため、住民離れもなくこれまで使われてきたのだろう。
だが三井の炭鉱は、規模は大きかったが元々三菱に比べると採炭量が少なく、昭和中期の石炭産業の斜陽化が進む中、昭和38年、早期に閉山した。
一方、三菱の炭鉱は、最盛期には年間百八十万トンもの採炭量を誇ったが、三井の閉山より10年後の昭和47年に閉山。こちらは操業時、炭鉱のそばに人口3万人を超える大都市を形成していたが、市街地から離れていたため、閉山後は最終的に無人になり、現在は記念公園になっている。
その炭鉱メモリアル森林公園には、大正12年に建設された赤い竪たて坑こう巻まき揚あげ櫓やぐらが二基、並んで建っている。高さ20メートルの櫓は、真下から見上げると実に巨大。すぐそばには、竪坑の施設や設備の電源を開閉していた竪坑開閉所も残っている。三菱炭鉱関連では、他にも、石炭輸送に使用されていた美唄鉄道の駅の一つ、東明駅が、唯一往時のままの姿で残されている。駅裏には、ここにしかない国鉄四一一〇形蒸気機関車と同形機の二号機関車が保存されていて、鉄道ファンにも人気だそうだ。
三菱炭鉱では閉山後、ほとんどの人が美唄を離れて各地に移っていったが、そんな人たちの中にも、今でも華やかだった日々を忘れられず、当時の思い出の風景を求めて、わずかに残されたこれらの産業遺産を見に訪れる人は少なくないという。
※『ふるさと再発見の旅 北海道』産業編集センター/編より抜粋