北海道小樽市祝津

北海道小樽市祝津
産業編集センター 出版部
2025/04/15 ~ 2025/05/15
北海道小樽市祝津

【旅ブックスONLINE 写真紀行】
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ニシン漁で巨万の富を築いた網元たちの夢のあと

 祝津はニシン漁で栄えた町である。
 ニシン漁が本格的に始まったのは江戸時代。記録によれば慶長6(1601)年、爾志郡突符村(にしぐんとつぷむら)で始まり、慶長19年に松前の八木八右衛門が小樽に来てニシン漁を始めたといわれている。ニシン漁の最盛期の水揚げ量は凄まじく、榎本守恵は『北海道の歴史』の中で、「鰊は春告魚ともよばれるように、春先大量に群来て、その二、三カ月の漁が〝一起し千両〞といわれ、漁師は鰊漁だけで一年間生活できた。まさに蝦夷地の春は鰊漁からはじまったのである」と書いている。
 一起こし千両とは、網を一回曳けば千両儲かる、という意味で、当時の千両は今で言えば約1億円。小樽と大阪を結ぶ北前船は一航海で千両の利益を上げたと言われるが、そのうちの900両は小樽から大阪へ運ぶニシンが生む利益だった。北海道のニシンは、大釜で茹でて魚油を搾り、残りは乾燥させてニシン粕にした。ニシン粕は農産物の肥料として使われ、魚油は繊維産業などを支える重要な役割を担っていて、なんと仕入れ値の五倍から10倍という高値で売れたという。つまり北前船の利益は、ニシンから生まれたものだったのだ。
 だが、明治の初めをピークとして北前船の本数は徐々に減り、さらに大正になってからは急激にニシンの漁獲量も激減、昭和30年を最後に、祝津では全くニシンが獲れなくなった。北海道に巨万の富をもたらしたニシン漁は、こうして約350年にわたる歴史に幕を下ろした。北海道でニシンが獲れなくなった原因としては、海流の変化、海水温の上昇、乱獲など諸説あるが、いまだに解明はされていないようだ。
 かつて祝津の町中には、網元たちの贅を尽くしたニシン御殿が次々に建てられ、沿岸には廻船問屋の蔵や番屋が建ち並んでいた。当時、東北方面から出稼ぎに来ていた季節労働者たちは「ヤン衆」と呼ばれていたが、彼らが暮らし、作業していた家が番屋である。大きな番屋になると、一軒に120人ものヤン衆が寝泊まりしていたという。
 祝津には今でもたくさんの番屋や石蔵・土蔵が残り、また網元たちが富を競った立派なニシン御殿もいくつか残っている。北海道の中でも、ニシン漁全盛期の華やかな歴史を色濃く残す、貴重な町並みである。

※『ふるさと再発見の旅 北海道』産業編集センター/編 より抜粋