Exhibition「あれから」

Exhibition「あれから」
菱田雄介 / キリコ / 澄毅
2025/09/16 ~ 2025/09/28
京都写真美術館 ギャラリー・ジャパネスク

京都写真美術館 ギャラリー・ジャパネスク 2階展示室にて、2025年9月16日(火)から9月28日(日)まで、菱田雄介 / キリコ / 澄毅 Exhibition「あれから」を開催します。※最終日14:00まで


2009年から2010年にかけてキヤノンの写真新世紀で佳作を受賞した三人が京都で展示を行います。「あれから」15年以上の月日が流れても制作を続けてきた3人それぞれの世界。最終日には写真新世紀にも縁が深い評論家の飯沢耕太郎さんを招きこれまでのこと、そしてこれからについてギャラリートークを行います。


【ギャラリートーク】
飯沢耕太郎× 出展作家
9/28(日) 14:15 – 15:30
観覧料:1000円(当日現金・予約不要)

 

<展示作品情報>

菱田雄介 Gleanings | border korea

地図上に引かれた一本の線は、そこに生きる人々の暮らしをどう変えるのか。
1945年8月11日、疲れ切った2人の軍人が手元にあった雑誌付録の地図で見つけた「38度線」。それが朝鮮半島の分断線となった。
1つの民族は2つの国に分かれ、やがて全く異なる社会となる。朝鮮民主主義人民共和国と、大韓民国。軍事境界線を挟んで全く違う歴史を歩むことで、2つの国の人々は決して交わらないパラレルな日常を生きることとなった。

2010年のCANON写真新世紀、私は北朝鮮と韓国で撮影した2枚の写真を見開きで見せる写真集を提示し、佳作に選出された。この作品「border | korea」は反響を呼び、韓国の大邱フォトビエンナーレなど海外で展示される機会を得た。2017年の年末には写真集を上梓すると、東京のギャラリーやソウルの美術館などで展示されることとなり、2020年には東京都写真美術館による「日本の新進作家展vol.17」に選出、映像版も含めて発表する機会を得た。

今回、展示するのはその「border | korea」を制作するにあたってこぼれ落ちてしまった写真たちである。一枚の写真としては納得できるものの、ペアになるべき写真がなかった作品たち。北と南の並置というコンセプトを敢えて外し、北朝鮮や韓国という括りに縛られない構成を考えた。

今、世界ではこれまで以上に「境界線」が大きな意味を持ち始めている。地図上に線を引き、その線の向こう側とこっち側で全く違う世界が築かれていく。人類はこうした線の引き合いをいつまで続けるのだろうか。

*Gleanings=落ち穂拾い、拾遺。

 

キリコ 「わたしの子宮」

ひどい生理痛に苦しみ、「女性」であることの痛みとともに生きてきた私にとって、 「わたしの子宮」は苦しみの源でありながら、不妊治療、妊娠、出産という人生の節目を共にくぐり抜けてきた「私の一部」だった。
私にとって子宮を失うことは、単なる臓器の摘出にとどまらず身体と心を引き裂かれるような衝撃的な体験だった。

それでも時間とともに傷は癒え、日常は何事もなかったかのように再開される。
誰も私が子宮を失ったことに気づかないという可笑しさ。
自分でさえ忘れてしまいそうになるという怖さ。
それでも、そうして生きていくことが「生きる」という現実なのだとも思う。

他人に気づかれぬ痛みを抱えながら、 日々に追われ、時に忘れ、また思い出しながら、生は続いていく。

今回の展示は、子宮を失う前と後の自分を見つめ直し、その内面的・身体的変容を客観的に探るために制作した、実験的なセルフポートレイトである。
あわせて、摘出後一度も見ることなく廃棄された「わたしの子宮」を、 唯一手元に残された一枚の記録写真を手がかりに、再び視覚化した作品も展示する。


澄毅

私にとって「みえる」世界は時に閉塞感や息苦しく感じる場所だ。写真に加えられた光も糸は手が届かない「みえる先の世界に」手を伸ばし続ける行為に近い。それらは私を網膜の先の世界の先にいざなってくれる。

私の写真には光や刺繍でその写真の一部が見えないものがある。しかし「見えない」は「存在しない」ことを意味しない。光が生む造形と空白は写真という時間をフィックスされたものを揺るがせる。それらが提示する新しい可能性や美は決してそれ単体で成立するものではない。写真に写った世界と新たに生まれる造形が共にあることで見出せる「みえる先の世界」を私は探し続けている。

例えば手から光が溢れる時、その光は太陽の光だ。太陽の光は私が生まれる前から在り、おそらく死んだ先も存在する。私という人間の持つ時間を超越する存在を援用できるのは幸せだ。一方で刺繍はそれを施すのにとても時間がかかるからこそ、自分の持つ時間の儚さを改めて認識させられる表現だ。儚さも超越もどちらもこの「みえる」世界の枠外にある。それは新たしく世界が一つ開くような感覚を持つ。

一人の人間が持てる生は一つで、人生は一つ、そして世界も一つだという縛りを私の作品は少しだけ解放する。世界はまた別の世界を見出し、そこには新しい何かがある。それを通して人間の持つ世界の可能性と美を拡張していきたい。