Matthew Jordan Smith Photo Exhibition “FLUID”

Matthew Jordan Smith Photo Exhibition “FLUID”
マシュー・ジョーダン・スミス
2020/09/01 ~ 2020/09/13
京都写真美術館 ギャラリー・ジャパネスク

京都写真美術館 ギャラリー・ジャパネスクでは、2階展示室にて、2020年9月1日(火)から9月13日(日)まで、 マシュー・ジョーダン・スミス 写真展「FLUID」を開催いたします。

Fluidとは:形のない物質。ガスや液体など。

アメリカ人写真家のマシューは、アートを創るにあたり、観る人が動きのある芸術を累積的に体験できるよう努めています。Fluidでは人のフォームが動く時に発生するとらえどころのない美しさを強調し、従来の写真フレームの境を超えたところに存在する動きを表しています。

今回の展示では作品の本質を十二分に表現するため、日本の伝統的な和紙、木工細工、そして音楽を取り入れました。木造のスタンドは京都で一から手造りされたもので、この展示において大切な役割を果たしています。和紙は一つ一つの作品を形取るのに必要な柔軟性と質感をもたらし、皆さまに作品を鑑賞するだけでなく、動きの流れ、動きの美、そして動きの体験が実感できるようになっています。


アーティスト・ステイトメント

色は鍵盤で、目はピアノのハンマー、魂は多くの弦からなるピアノそのものである。アーティストは鍵盤を叩くことで魂に振動を引き起こして奏でる手なのである。

ワシリー・カンディンスキー

Fluidの制作を始めた当初、私は画像を写真という形に収めようとしていたがどうしてもしっくりこなかった。そして私は次第にFluidは写真ではない、と気づいていった。

Fluidの創作では必ず音楽をかけるが、毎回最初は同じ曲をプレイする。これまでこの過程を変えたことはないが、毎回必ず何か新しいものが生まれる。同じ作品は二度とないのだ。創作過程で被写体も私もじっとはしていない。音楽が我々を一体となって動かし、一緒にエンドレスなフレームを捉えていく。

芸術家アンディ・ウォーホルは1963-1966年の間、先入観のある肖像画の概念に挑み、またシネマカメラの本質にも挑戦した。実用面を考慮すると、動きの全体像を捉えるには録画機器を使うのが良いのであろう。写真撮影にはしばし適切なカメラと画像編集ソフトを使うことが求められる。しかし、芸術とはパラダイム(理論的枠組み)に疑問を投げかけるものだ。よって、Fluidにはフィルムを使い、フォトショップや従来のカメラ、またデジタル操作などを一切使用することなく制作されている。

写真家であり、映画界のゴッドファーザーでもあったエドワード・マイブリッジと、クロノフォトグラフィ(連続写真)の発明者エティエンヌ=ジュール・マーレーは「動きを捉える」という先例を作り、私が「動きとの会話」という考えの起源となった人たちである。しかし彼らが見抜くことができなかったのは何だろうか?マイブリッジは、ギャロップする馬が宙に浮く瞬間があるか否かの賭け事を写真で解決しようとしていた当時、この馬の連写がメディアの未来、ひいては20世紀の社会と文化に与える影響力に気付いていなかった。写真は科学と芸術が交差する部分にあると言えるが、彼らはその交差部分を見逃したのだ。科学と呼ばれる一方通行の道を見ていたように、彼らの作品において人間の目には見えないほんの一瞬で捉えられた動きを必死になって解剖していたのだ。

90年代、有名なタップダンサーのグレゴリー・ハインズの撮影をしたことがある。写真を現像してみると予期せぬ結果に驚いた。カメラの誤作動により、その画像はカンディンスキーの魂と彼の過去が宿っているように見えたのだ。それはマイブリッジの作品に影響を受けた画家マルセル・デュシャンの「階段を降りる裸体」やジャコモ・バッラの「鎖に繋がれた犬のダイナミズム」などの作品から見られる動きと時間の構成が現れていた。人の目は非常に速い動きを見きれないのと同様、とても遅い動きも記録できない。分単位、秒単位で作る画像を同時にスローで作成したり、スピードアップしたり、また、長時間露光と短時間露光の両方を使うとどのような画像になるだろうか。

その結果がFluidである。Fluidは奥深い動きと会話をし、従来の写真撮影や映画では見られない隠れた動きを探索するのだ。

砂曼荼羅を描くチベットの僧侶はよくアートの形をダンスと比較する。砂曼荼羅は完成後すぐ壊されてしまい、その経験の記憶だけが残る。

私は肉眼では見えない隠れた瞬間、動き、そしてこれまで失われた一瞬を捉えるためにFluidを創った。


協力:アワガミファクトリー