大久保 千広
Okubo Chihiro
1948年1月 三重県生まれ
東京綜合写真専門学校中退と同時に京都の大学へ。在学中から、筑豊炭鉱跡・軍艦島・高島炭鉱跡などを撮り歩く。給料というものを貰った経験は一度もなく、生粋のフリー。
フリー時代は「市勢要覧」「県勢要覧」などの写真を撮りながら、幼児教育月刊誌(今は廃刊)で仕事。やがて講談社などの幼児雑誌からも声がかかる。「大久保さんは子供の目線で撮ってくれる」が編集者の言葉だった。
炭鉱跡巡りは続けていた。それが「文藝春秋」誌の目に留まり、グラビアに掲載され「週刊文春」の仕事をするようになる。傍らで「女性自身」・某企業PR誌の仕事も行い、平成24年に「週刊文春」をやめるまで、仕事の現場は一貫して西日本だった。
東京綜合写真専門学校中退と同時に京都の大学へ。在学中から、筑豊炭鉱跡・軍艦島・高島炭鉱跡などを撮り歩く。給料というものを貰った経験は一度もなく、生粋のフリー。
フリー時代は「市勢要覧」「県勢要覧」などの写真を撮りながら、幼児教育月刊誌(今は廃刊)で仕事。やがて講談社などの幼児雑誌からも声がかかる。「大久保さんは子供の目線で撮ってくれる」が編集者の言葉だった。
炭鉱跡巡りは続けていた。それが「文藝春秋」誌の目に留まり、グラビアに掲載され「週刊文春」の仕事をするようになる。傍らで「女性自身」・某企業PR誌の仕事も行い、平成24年に「週刊文春」をやめるまで、仕事の現場は一貫して西日本だった。
平成25年脳梗塞で入院するが、そのリハビリを兼ねて、以前から興味を持っていた「日本昔ばなし」をテーマに3年余り写真を撮り歩き、平成29年写真集「昔ばなしの”あるところに”をたずねて」を出版した。
かつて「四日市公害」がテーマの樋口健二氏の写真集を企画したことから、原発写真の第一人者、樋口健二氏を今でも”師”と思っている。僕の写真は”撮ること”ではなく、写真を”みること”から出発した。
日本写真作家協会会員
かつて「四日市公害」がテーマの樋口健二氏の写真集を企画したことから、原発写真の第一人者、樋口健二氏を今でも”師”と思っている。僕の写真は”撮ること”ではなく、写真を”みること”から出発した。
日本写真作家協会会員